黒部峡谷鉄道と電源開発の歴史|トロッコ電車に乗る前に抑えておきたい3つのポイント

こんにちは。全国通訳案内士のYUICHIです。
トロッコ電車に乗って雄大な自然景観を楽しめる人気観光地の黒部峡谷ですが、僕たちがトロッコ電車に乗れるようになったのは想像を絶する先人の努力と勇気の賜物でした。
そもそも黒部峡谷鉄道は黒部川で電源を開発する目的で敷設されたものだったのですが、峡谷を訪れてみたいという観光客の強い要望でしぶしぶ観光客を乗せて走っていたそうですね。
今回は少し真面目な話題になりますが、今日人気の観光地である黒部峡谷鉄道がどのように誕生したのかを記事にしてみました。
記事を読んでいただき、黒部峡谷鉄道をより深く楽しんでいただければ幸いです。
黒部峡谷ってどうやってできた?
実は、黒部峡谷って三重県の大杉谷や新潟県の清津峡とならんで日本三大峡谷のひとつに数えられるほど有名です。
それもそのはず。黒部峡谷はその成り立ちまでの過程がとてもダイナミックです。
6430万年前から260万年前にかけて、現在の富山県と岐阜県飛騨地方の県境あたりに大規模な地殻変動が起こりました。

それによって形成されたのが飛騨山脈。僕たちにしてみれば、300年前の生活を想像するのも難しいのに、本当に気が遠くなりそうな話ですね。
3000メートル級の山々が連なる飛騨山脈から流れてきた水流が、山々を分断するように、周辺を削りながら、富山湾へ向かって流れていきました。

その水流が黒部川なのです。
黒部川は高くて、しかも傾斜の急な山脈から流れてくる河川。その水力は想像を絶するくらい強いものなのでしょう。
3000メートル級の山々が削られてできる谷なので、深さはもちろん日本一です。
実際、黒部峡谷の谷の深さは平均で1500メートル、最も深いところでは2000メートルあると言われています。
物凄く深い峡谷だけに秘境感も満載ですよね!
黒部峡谷に鉄道を造った目的とは
前項では、黒部峡谷でいかにして壮大な景観が生まれたのか、その形成過程を簡単にご説明しました。ここまでの説明で黒部峡谷に対して猛々しい山々に獰猛な急流河川のイメージがついたのではないでしょうか。
それでは、ここで黒部峡谷鉄道の話に戻ります。

前述のとおり、黒部峡谷は想像を絶する難所です。普通なら怖くて立ち入るのも憚られる場所ですが、なぜ危険を冒してまで鉄道を通さなければならなかったのでしょうか?
その理由は日本の経済成長にあります。
黒部川は降雨量が多く、しかも傾斜の急な暴れ川。かなり危険を伴いますが、水力発電を行うに大変有利な地形を備えていたのです。
日本電力株式会社(現在の関西電力株式会社)の初代社長は「電源ありしこうして産業あり」の信念をもって、黒部峡谷の電源開発に挑みました。

大正12年(1923年)、日本電力株式会社は発電所を建設するための資材や作業員の輸送を目的として「黒部専用鉄道」として敷設工事を開始しました。
難工事を繰り返して誕生したもの
とてつもない難所だった黒部峡谷では度々大洪水や雪崩れなどの自然災害に見舞われていました。そのような状況の中、黒部峡谷鉄道は運行されていたのです。
以下は当時発行されていた黒部峡谷鉄道のきっぷです。

何て書いてあるかというと…つまり「乗車に当たり安全を保障しません」ということです。トロッコ電車なんて、普通なら怖くて乗れませんよね…。
それでも、幾多もの苦難を乗り越え、昭和2年(1927年)に黒部峡谷初の発電所である柳河原発電所が完成しました。

この柳河原発電所こそが、現在トロッコ電車で宇奈月駅から出発して10分後の地点で観られるヨーロッパ風の建物なのです。
昭和12年(1937年)、ついに黒部峡谷鉄道は欅平まで電車が開通。以後、愛本発電所、黒部川第二発電所、第三発電所が建設されていきました。
黒部峡谷鉄道と電源開発 まとめ
今回は富山県の超人気観光地である「黒部峡谷」で行われた電源開発物語についてお話しさせていただきました。いかがでしたか?
飛騨山脈に属す3000メートル級の山々、2000メートルの深い谷。
黒部峡谷には自然のダイナミズムとそれに挑んだ人間の歴史が刻まれています。
普通にトロッコに乗るだけでも充分楽しめる観光地ですが、このような電源開発の秘話なども聞いてみると、より一層黒部峡谷の旅が楽しくなるのではないでしょうか。
黒部峡谷鉄道沿線では、電源開発にまつわるエピソードを想起させる建物も観られます。先人たちの努力に思いを馳せてトロッコ電車を楽しむのもいいですよ。
さらに。電源開発の物語は世紀の大工事と呼ばれる黒部川第四発電所へと続いていきます。
黒部川第四発電所とは、皆さんよくご存じ、立山黒部アルペンルートの「黒部ダム」のことです。
黒部ダムにまつわるエピソードはまたいつかお話ししたいと思います。
それでは、また!