観光コラム

【富山の売薬産業】なぜ有名?歴史上の話から現在までの歩み

YUICHI

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こんにちは。通訳案内士のYUICHIです。

富山市は歴史的に薬の都として多くの人に知られていますね。

それにしても、富山の薬はどうして有名なのでしょうか?

富山の薬は甘くて美味しいから?

いやいや、薬の評価は食べ物とは違って美味しいとかまずいとかでは決まりませんよね。

それに、富山に限らずとも、日本には武田薬品工業や塩野義製薬など多くの製薬メーカーがあります。

明治時代以降の近代化により運送手段や流通網が発達したおかげで、日本の医薬品製造において地域による品質の違いはなくなってきたのではないかと思います。

しかし、厚生労働省の「薬事工業生産動態統計調査」によると、

富山県の医薬品生産金額は621,845,000,000円。

東京の605,814,000,000円、大阪の605,814,000,000円を抜いて全国一位です。

「くすりのとやま」って今でも健在なのですね。

では、なぜ富山が現代においても医薬品業界で名をとどろかせているのでしょうか?

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富山の薬売りビジネスの始まりは江戸時代にあった

富山の薬売りは江戸時代初期に始まりました。

数こそ少なくなったものの、今でも置き薬の売薬さんが全国を売り歩いています。

現代に至るまで約400年。薬の製造・販売は、富山の地域産業として長い歴史があります。

それでは、江戸時代にどのような出来事があって富山の薬売りビジネスにつながったのでしょうか?

富山市は江戸時代に富山藩と呼ばれており、西で隣接している加賀藩から分割されて成立しました。

当時、富山藩があったエリアは未開拓の土地が多く、藩の財政は困窮していたようです。

そこで富山藩の当時のお殿様、前田正甫(まえだ まさとし)公はどうにかして藩の財政を豊かにしようと試行錯誤していました。

ところで、正甫公は体が病弱だったようで、薬に対する興味が他の人よりも強かったといいます。彼は九州の有名な医師を招いて、反魂丹という何にでも(特に腹痛に)効く薬を調合してもらい、肌身離さず持ち歩いていたそうです。

これだけを聞くと、単に薬好きな(ちょっと語弊がありますが…)お殿様というイメージしかありませんよね。

じつは、富山の薬を有名にしたエピソードがあります。このエピソードが江戸時代より、富山がくすりの町として知られる原点と言えるでしょう。

江戸城で起きたある事件がきっかけで富山の薬が有名に?

当時は徳川幕府を中心とした封建時代。

歳の暮れには、全国の大名がの江戸城に集まります。公方様とよばれる武家の頭領である徳川将軍家に歳暮の挨拶をするためです。

諸大名と同じく、正甫公も将軍に拝謁するために江戸城を訪れていました。

正甫公が、いつものように江戸城の大広間で将軍への拝謁の時間を待っていると…

「あ~腹が痛い!」と、拝謁の間の外から呻く声が聞こえてきました。

外に出てみると、昔から親しい間柄の陸奥国三春藩主の秋田輝季(あきた てるすえ)が腹を抑えて苦しそうにしていました。

正甫公はすぐさま座を離れ、輝季氏の元へ駆け寄って、懐の印籠の中に納めていた反魂丹を秋田氏に飲ませました。

するとたちまちのうちに腹の調子が良くなり、顔色も元に戻っていったそうです。

この出来事があっという間に江戸城内に広がり、諸大名たちから反魂丹を売ってほしいと依頼が殺到。さらには好評を得た反魂丹は全国の諸大名によって全国各地に言い伝えられたとのこと。

これが富山の薬が有名になるきっかけになったエピソードです。

富山の薬売りビジネスが確立!当時の画期的な商法は現代ビジネスに引き継がれた?

この出来事以降、正甫公はますます薬の調合や薬売りビジネスに没頭するようになります。

富山藩は、山林地域が少なく、鉱物資源に恵まれませんでした。そんな富山藩にとって、薬の販路開拓する事は重要な政策。商人には売薬に課税しないことを決め、より一層薬売りビジネスに励む商人、いわゆる売薬さんが増えて行ったのです。

富山の人々は、元々足腰が強く、粘り強い性格の人が多いです。

そして商魂もたくましい。富山の薬売りはいよいよ全国行脚を開始。

米俵一俵にも匹敵する重い薬箱を抱えながら薩摩(鹿児島県)から東北まで薬を売りに出かけていきました。

ところで、世の中には「縦横無尽」「以心伝心」「温故知新」など様々な四字熟語が聞かれますが、皆さんは「先用後利(せんようこうり)」と言う四字熟語を知っていますか?

実は、この言葉が富山の薬売りビジネススタイルを表しています。

この四字熟語は「先に(お客様に)使ってもらって後で代金を回収する」という意味です。以下が、先用後利の流れです。

  1. 売薬さんが何種類もの薬が入った柳行李(やなぎごおり)という大きな薬箱を各家庭に置いていく。
  2. 家の人は必要な分だけ薬箱から薬を取り出して使用する。
  3. 売薬さんは、毎年定期的に各家庭を訪問し、どの薬をどれだけ使ったかチェック。そして、使った分だけを謝礼金として代金を頂戴する。未使用の薬は回収する。

これが先用後利のシステムです。今のクレジットカードのシステムによく似ていますよね。

薬種商から幅広い産業へ進出

江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した北前船という貿易船のおかげで、富山の薬種商はさらに発展を続けることになります。

薬種商で財をなした人々は富山県における他の産業育成にも貢献しました。金岡家もそのひとつであり、発電、砂防工事、金融など様々な分野へ薬種商で得られた資本を投入していきました。じつは、IT関係で有名なインテック社も金岡家による設立です。

富山県は、東京、大阪、名古屋など大都市圏から距離が離れているにもかかわらず、医薬品をはじめ、アルミ、製紙、プラスチック、ITなど多くの産業が育っています。

産業があるということは雇用機会にも恵まれているということですね。

売薬さんのイメージは富山の県民性そのもの?

売薬さんは、30キロもする大きな薬箱を担いで野を越え山を越え、全国にあるどんな寒村でも僻地でも訪ねて行ったそうです。

全国いろんな場所で聴ける土産話を携えて…。

他県のご年配の方に富山の売薬さんの印象を聞くと、とても忍耐強く質実剛健、そして話上手だったようです。

僕自身も、歩くことは好きなので、旅好きな県民性を受け継いでいるのかもしれませんね。

富山のくすりが有名なワケ まとめ

今回の読み物はいかがでしたか?

「くすりの富山」として知られているのには、江戸時代から伝わる前田正甫公のエピソードや質実剛健な越中商人の気質が根底にあります。

富山の薬には富山人の魂が込められているということですね。そういった知識を持って、富山の街を訪れると楽しみが増えると思いますよ。

それでは、最後まで記事をご覧いただき、ありがとうございました。

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