投稿者: YUICHI

  • 【お知らせ】 WALK TOYAMAの過去の記事を整理しています。

    現在ブログの見やすさ、使いやすさを改善するため、これまでに書いた観光、グルメ、宿泊などの記事を整理しています。

    具体的には、過去の記事を順次新しいナビゲーションバーへ仕分けしています。

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  • カルデラ砂防の歴史|立山を案内するときに知っておきたいストーリー

    カルデラ砂防の歴史|立山を案内するときに知っておきたいストーリー

    こんにちは。全国通訳案内士のYUICHIです。

    今回は訪日観光客向けの話題として、少しシリアスな内容を含む立山カルデラ砂防施設を紹介します。

    立山カルデラは、東西約6.5km、南北約4.5km、標高差が500~1700mもある巨大なくぼ地です。立山カルデラでは過去何度も崩壊した土砂が溜まり、大雨のたびに溜まった土砂が平野部へ流出し、大きな被害をもたらしました。

    富山平野を守るために明治時代以降に砂防工事が始まり、かれこれ1世紀以上にわたって工事が続いています。

    立山カルデラの砂防システムについては、立山黒部アルペンルートへ向かう途中の地鉄電車の中、特に「千垣駅」「有峰口駅」あたりでお話しするとよさそうな内容です。

    最近では北陸地方のガイド案件に、金沢や白川郷のみならず、彫刻で有名な井波町や立山黒部アルペンルートなども入ってくるようになってきました。いつ案件が入ってきてもいいように話題を仕込んでおきましょう!

    立山砂防の歴史は安政の飛越地震に始まった

    1858年4月に跡津川断層の活動によりマグニチュード7.3〜7.6の大きな地震が発生しました。

    この地震により、立山カルデラの南側に位置している大鳶山(おおとんびやま)と小鳶山(ことんびやま)が崩壊。大量の岩石や土砂がカルデラ内の川の流れを堰き止め、多くの堰き止め湖ができました。この事象は地元で「鳶崩れ」と言われています。

    「鳶崩れ」から2ヶ月ほど経過し、堰き止め湖が2回決壊。大規模な土石流が常願寺川一体に大きな被害をもたらしました。

    現在こそ富山県は災害の少ない県として知られていますが、過去に「鳶崩れ」のような大きな災害に度々見舞われた災害の多い県でした。

    富山県は短い距離の中に3,000mの標高差を持つ地形が存在しており、雪や雨の降る日が多いことから、数多くの急流河川があります。

    砂防工事の始まり(1906年)

    じつは、明治初期の頃、富山県はまだ石川県の一部でした。

    しかし、立山など広大な山岳地帯が住民へもたらす脅威が大きく、政治的課題として治水や砂防工事が重視されたことから現在の富山県に分県されました。

    当時の富山県は、あまりにも頻繁に土砂災害が発生したことから砂防事業を始めましたが、富山県だけではなかなか工事が捗りませんでした。そこで国の直轄工事として立山砂防工事事務所が事業を引き継ぎました。

    砂防工事に関わった人々

    赤木正雄

    1926年、赤木正雄氏が初代立山砂防工事事務所所長に就任。白岩砂防ダムなど常願寺川の砂防に尽力した砂防の第一人者。

    砂防関連の政策に関して、大胆なアイデアを出して、難関工事と言われた立山砂防システムを完成させた。

    ヨハネス デ・レーケ

    オランダ出身の1873年より、内務省土木関係部署に土木技師として所属。木曽三川や淀川、常願寺川などの治水事業に携わりました。1891年にデ・レーケ氏は初めて崩壊したカルデラを見ることになり、その光景に圧倒されたようです。デ・レーケ氏は、山の土砂の流れを食い止める巨石堰堤という工法で土砂を食い止めることに成功しました。

    まとめ

    これまで紹介したように、ご両人の大胆な構想や卓越した技術、そして関係者の不断の努力のおかげで、富山平野は土砂災害や水害から守られています。

    しかし、立山カルデラはまだまだ膨大な土砂が残っているため、富山平野の安全を守るためたゆみない努力が求められている場所なのです。

    富山は災害が少なく住みやすい地域とは言われていますが、今回ご紹介したとおり、先人たちの不屈かつたゆまぬ努力の上に得た安全であることを知り、感謝の気持ちを持って生活したいものですね。

    それでは、最後まで記事をお読みいただきありがとうございました!

  • 富山城址公園を通訳ガイドするとき訪日客に説明したい3つのポイント

    富山城址公園を通訳ガイドするとき訪日客に説明したい3つのポイント

    通訳案内士として北陸地方を案内された経験のある方であれば、金沢城を案内することがとても多いのではないでしょうか。

    しかし、中には日本の歴史やお城に興味があって、「富山城も見てみたい」と仰るお客様もいるかもしれませんね。

    今回は「金沢だけじゃなく富山も見てみたい」というリクエスト(それほど多くはないと思いますが…)に応えるために必要な知識について書きました。

    皆さんが訪日観光客の方をお連れする際に参考にしていただければ幸いです。

    個人的には富山城址公園を案内する機会があるなら、ぜひ挑戦すべきだと思っています。

    その理由は、富山城には江戸時代から現存している大変貴重な遺構が残っているし、富山藩の歴史や領域について正しく認識すれば北陸のガイディングに厚みが増すからです。

    訪日客の皆様に説明しておきたいポイントは以下の3つです。

    • 富山城が築かれた経緯
    • 富山藩の領域
    • 富山城址公園に現存する遺構(千歳御門、鏡石、搦手石垣)

    富山城はいつから存在していた?

    富山城の古い歴史については謎に包まれた部分が多く、はっきりとした変遷がわかるのは中世以降のことになります。

    中世(戦国時代)の富山城

    富山城は1543年(天文12年)神保長職(じんぼ ながもと)という戦国大名によって築かれました。ところが、現在の富山市周辺はかつて上杉謙信や織田信長、一向一揆勢など大きな勢力がひしめき合う争奪の場でした。つまり現在の富山市周辺は確固たる勢力の確定していない地域だったということですね。

    この点において、中世に浄土真宗の一向一揆勢力の拠点だった尾山御坊(現在の金沢市)とは事情が大きく異なっていました。

    近世(江戸時代)の富山城|前田利長公が整備

    徳川家康が関ヶ原の合戦に勝利し、江戸幕府を設立しました。日本国内の争乱は平定され、平和な時代が訪れました。

    そんな中、富山城を整備したのは加賀前田家の初代藩主 前田利長 です。ところが、利長がせっかく整備した富山城は大火事で焼失。1615年に江戸幕府が発布した一国一城令によって廃城になりました。

    江戸時代の前田家加賀藩は徳川幕府に次いで2番目に大きな武家勢力でした。二代藩主 前田利常 は自分たちの血統を絶やさないよう、大乗寺藩(現在の加賀温泉駅あたり)、七日市藩(現在の群馬県富岡市)、そして富山藩という支藩を設けることにしました。

    この時に富山城が再建され、前田利常 の次男 前田利次 が初代藩主として入城しました。富山藩は所領十万石の小さな藩領で、現在の富山城址公園にはかつて富山城の本丸が存在していました。

    金沢城のある本家加賀藩(現在の石川県)はなんと百万石。富山藩とは明らかに規模が違いますね。

    しかし、この小さな富山藩から富山の売薬産業が産声を上げたのです。

    現在の富山城

    現在のお城(天守閣)は、西暦1954年(昭和29年)に富山産業大博覧会という戦後復興の一大イベントに合わせて再建されたものです。日本で初めて再建された天守として話題になりました。大げさかもしれませんが、戦後日本復興のシンボルとも言えるのではないでしょうか。

    富山藩の領域|富山藩=富山県ではない?

    現在の県名は富山県。江戸時代の小藩であった富山藩と同じ名前がついているため、てっきり富山県全部が富山藩の支配下にあったのだろうと思いますよね。

    そのような誤解はとても多いのではないでしょうか。

    じつは富山藩に属していたのは以下の地域のみです。

    • 富山町(富山まちなかエリア)
    • 四方
    • 西岩瀬
    • 旧・八尾町
    • 旧・大沢野町の一部
    • 旧・細入村

    ちなみに、観光地として知られている岩瀬エリアはかつて東岩瀬と呼ばれており、じつは加賀藩領です。なので、厳密に言うと、岩瀬の北前船文化というのは加賀藩が築いたものなのですね。

    富山城址公園周辺を散策してみよう

    現在の城址公園の広さは甲子園球場の2倍程度。公園内にはこじんまりとした天守閣と日本庭園があります。そんなに混みあうことはないと思うので、30分ほどかけてゆっくり散策してみましょう。

    通訳案内士の方であれば、特に千歳御門鏡石搦手石垣などは江戸時代から現存している遺構なのでチェックしておきたいところです。

    以下の記事で富山城址公園への行き方や見どころを解説しているのでご参考になれば幸いです。

    まとめ

    今回は富山城址公園を通訳ガイドする際に、訪日客の皆様にお伝えしたい3つのポイントについて解説しました。

    北陸地方で通訳ガイドをするとなると金沢がメインになりますが、じつは北陸の歴史を語るうえで、富山にも興味深い観光スポットが存在します。

    富山城址公園に佇む天守は戦後に再建されたものですが、千歳御門や鏡石など江戸時代当時の遺構も残っているので、日本の歴史に興味のあるお客様にはぜひお勧めしたい観光スポットです。

    ぜひ通訳案内士の皆様には、機会があれば富山城址公園も旅程に含んでいただければと思います。

    それでは、最後まで記事をご覧いただきありがとうございました!

  • 高山の出張宿泊で僕が「ホテルウィング飛騨高山」を選ぶ3つの理由

    高山の出張宿泊で僕が「ホテルウィング飛騨高山」を選ぶ3つの理由

    こんにちは。全国通訳案内士のYUICHIです。

    高山での通訳案内業務に対応していると、時々「白川郷や金沢も含めて2泊3日で案内してほしい」というリクエストを受けることがあります。

    その際は僕自身の宿泊も手配することになるのですが、ホテルウィングインターナショナル飛騨高山(以下、ホテルウィング飛騨高山)を選ぶことが多いです。

    他のリーズナブルな高山駅前のホテルと比較して、やや距離が遠いですが、天然温泉やアメニティーが充実しているので快適に過ごすことができます。

    ホテルウィング飛騨高山がおすすめな人は?

    ホテルウィング飛騨高山は以下のような方にニーズがありそうです。

    • 出張で高山を訪れるビジネスマン(通訳案内士含む)
    • 主要駅からの距離よりも快適さを重視する方
    • 充実したアメニティを求めている方
    • 手頃に高山の温泉を楽しみたい方

    ホテルウィング飛騨高山の料金は?

    それほど至れり尽くせりのホテルなら、料金が高くないか気になりますよね。以下に客室タイプ別の料金の目安を書かせていただきました。

    シングル(会員):9,300円

    シングル(一般):10,300円

    時々、ホテルウイング飛騨高山の公式ホームページでタイムセールをやっており、以下の金額でも泊まれることもあります!

    シングル(会員):7,900円

    シングル(一般):8,800円

    通訳案内士の皆さんであれば、お客様(直接取引、マッチングサービス経由など)やエージェントから10,000円/泊程度の宿泊手当(Accommodation Allowance)を頂くことが多いので充分滞在可能です。

    ホテルウィング飛騨高山への行き方

    ホテルウィング飛騨高山はJR高山本線「高山駅」から徒歩で約7〜8分の場所にあります。

    お勧めの理由①|清潔感あふれる館内&アメニティ

    お勧めの理由①|清潔感あふれる館内&アメニティ

    清潔感がありキレイなパブリックスペース。飛騨の小京都である高山をモダンに表現したデザインも素敵です。

    お勧めの理由①|清潔感あふれる館内&アメニティ

    ちなみに写真左側に見えているのは電子レンジです。エレベーターの側にあり、宿泊客なら誰でも使えます。

    充実したアメニティー

    充実したアメニティー

    アメニティー類の棚はフロントとエレベーターの間に設置されています。以下がこの棚に置いてあるアメニティです。

    • 歯ブラシ
    • 歯磨き粉
    • カミソリ
    • ヘアブラシ
    • シェービングクリーム
    • クレンジング
    • 洗顔
    • 化粧水
    • 乳液
    • ボディタオル
    • コットン
    • 綿棒
    • ヘアゴム
    • ティーパック

    お勧めの理由②|客室のテレビ画面(YouTube対応)

    お勧めの理由②|客室のテレビ画面(YouTube対応)

    フロア同様、客室の中も清潔感があるので気持ち良く滞在できます。

    部屋のテレビでYouTubeを観られる?

    部屋のテレビでYouTubeを観られる?

    お部屋の中にはベッドの前に大画面のテレビが備え付けられており、地デジ放送はもちろん、YouTubeやHuluも観られます。

    さらにスマホがあれば「キャスト」機能で自分のスマホからYouTubeなどの動画を再生・表示することができます。

    小さなテーブルとソファ

    小さなテーブルとソファ

    最安値のプランの場合、ベッドの隣に小さなソファとテーブルがあります。

    がっつりデスクワークをする方には少し不向きかもしれませんが、通訳案内士にはこれで充分かなと。パソコンで翌日の訪問地を調査したり、WordやExcelで報告書や請求書を書いたりする程度の仕事しかしないので。

    ケトル有り。コーヒーやお茶でほっと一息

    ケトル有り。コーヒーやお茶でほっと一息

    入り口付近にケトルも置いてありました。1階のアメニティーバイキングからコーヒーや煎茶などを持ち出してもいいし、なんならカップラーメンだって作れます。

    全身が映る鏡で身だしなみも完璧に

    全身が映る鏡で身だしなみも完璧に

    入り口近くには全身が映る鏡が。これはとても助かりますね。通訳案内士も身だしなみが大切。鏡があればお仕事に出かける前の最終チェックも完璧です。

    お勧めの理由③|ビジネスホテルなのに天然温泉?

    お勧めの理由③|ビジネスホテルなのに天然温泉?

    なんと「ホテルウィング飛騨高山はビジネスホテルなのに天然温泉に入れるという素晴らしいホテルです。仕事上がりにひとっ風呂浴びるは最高ですね。

    湯船からは時計も見れるので時間管理もしやすいです。↓

    お勧めの理由③|ビジネスホテルなのに天然温泉?

    ホテルウィング飛騨高山 まとめ

    今回は高山へ出張や通訳案内で訪れる方へお勧めしたいビジネスホテル「ホテルウイング飛騨高山」をご紹介しました。

    「ホテルウィング飛騨高山」は高山駅から歩いて9分の場所にあり、利便性の観点からはそれほどお勧めできませんが、出張したときに快適に過ごしたい方にはお勧めできるビジネスホテルです。

    仕事前の身だしなみやリラックスに使えるアメニティーが充実しており、天然温泉も利用できます。また客室にはYouTubeが再生できる大きなスクリーンもついておりゆっくり、快適に、楽しく過ごすことができますよ。

    駅から歩くことに抵抗がない方にはぜひ利用してみていただきたいです。

    それでは。最後まで記事をご覧くださりありがとうございました。

  • 【穴場】富山湾に面した古き宿場町・滑川市の宿場回廊を巡ってきた。

    【穴場】富山湾に面した古き宿場町・滑川市の宿場回廊を巡ってきた。

    こんにちは。全国通訳案内士YUICHIです。

    富山県滑川市は、富山市から北東15キロメートル離れた場所にある海沿いの小さな町です。

    滑川市には、ほたるいかミュージアムや東福寺野公園などの観光スポットがあります。

    そしてあまり知られていないのですが、江戸時代から続く宿場町も見どころのひとつです。富山県で歴史を感じられるエリアとしてお勧めしたい観光スポットですね。

    なんと松尾芭蕉も滑川の宿場町を訪れたことがあり、まちなかに歌碑が残っています。

    滑川の宿場町は「宿場回廊」と呼ばれています。あいの風鉄道「滑川駅」や富山地方鉄道「中滑川駅」から東西に伸びている街道筋をぐるっと一周して1〜2時間程度の行程になります。

    高山のさんまち通りや金沢のひがし茶屋街ほどの賑わいはありませんが、かつて主要街道として賑わっていた面影を静かに感じとることができる良い町なのでお勧めです。

    滑川・宿場回廊への行き方

    滑川の宿場回廊の玄関口には、あいの風鉄道「滑川駅」と富山地方鉄道「中滑川駅」の2箇所があります。

    あいの風鉄道 富山駅→滑川駅の場合

    お急ぎの方や現地で時間をたっぷりと取りたい方にお勧めです。ただし、宿場回廊の中心までは歩いて15分くらいかかるので、足の負担を気にしている方は少し注意が必要ですね。

    富山地方鉄道 電鉄富山駅→中滑川駅の場合

    富山地方鉄道の電車は各駅停車、しかも途中上市町を経由するため、あいの風鉄道と比べて時間がかかります。車窓の風景を眺めながらのんびり旅行したい人に向いています。

    乗車時間は長いですが、宿場回廊の中心までの距離は近いです。中滑川駅からの出発は歩く距離を少し減らしたい方にお勧めのルートです。

    滑川宿場回廊 町の歴史を感じられる見どころ

    滑川市の宿場回廊には、北国街道を中心に江戸末期から大正時代に建てられた建築物が残っています。

    古き良き伝統を偲ばせる土蔵造りの和風建築から繊細かつ荘厳な洋風建築まで、時代の変遷を感じさせる建築物がたくさんあります。

    晒屋(さらしや)

    江戸時代、滑川は新川木綿の特産地として知られていました。

    木綿そのものを販売するお店や染物屋などが軒を連ねていました。町中にはきれいな川が流れており、業者はその川の水に綿布や麻布を晒していたので、晒屋という地名が付きました。

    滑川館|国登録有形文化財

    滑川館は、明治時代から旅館業を営んでいた土肥家が経営する旅館です。現在の滑川館は、国の登録有形文化財であり、旅館として利用されていないため、外観を眺めるだけの建物になっています。

    典型的な町家の間取りになっており、左手の玄関から入ると廊下(通り庭)が奥まで伸びており、右手には手前から奥へ、居室に通じる階段、吹き抜け空間、座敷などが続きます。

    橋場

    宿場回廊の中央には中川という川が流れています。現在橋場と呼ばれているエリアには古くから橋が架けられており、東西の街区や北国街道を行き交う人々の交流地点として賑わいました。明治時代には警察署や町役場が置かれ滑川の地方政治の中枢としても発展しました。

    また、すぐ近くに河口があり、漁船が数多く係留する船溜まりになっていました。橋場周辺はとても賑わっていたことは想像に難くありませんね。

    現在、川の一部には道路ができたため、部分的にしか川の様子が見られなくなっています。

    昭和時代の高度経済成長期には映画館、旅館、銀行、魚市場などがあり、とても賑わっていたそうです。

    廣野家住宅主屋|国登録有形文化財

    こちらも滑川館同様に典型的な町家造りの邸宅ですが、間取りは数寄屋風の書院造りというユニークな建物です。

    廣野医院|国登録有形文化財

    廣野医院は、滑川宿場回廊には珍しい木造二階建ての洋風建築です。クリーム色のモルタル仕立ての外壁が特徴ですが、昭和初期にはよく見られた建築物のようです。

    医院といっても1998年に閉業しており、滑川館や廣野家主屋と同様、国の登録有形文化財として外観のみご覧になれます。

    荒町周辺|松尾芭蕉が滞在した富山湾沿いの町

    荒町は富山湾と北国街道に並行して家屋が連なっている町で、家々のあいだには浜へ通り抜けできる小路がたくさん見られます。

    また、荒町は1689年に松尾芭蕉が立ち寄ったとされる町です。川瀬屋という旅籠(宿泊施設)に松尾芭蕉が滞在していたという説があります。

    松尾芭蕉が江戸〜東北〜北陸〜美濃を巡ったときのことを記した「奥のほそ道」という紀行文は歴史の授業でお馴染みですよね。荒町も芭蕉が訪れた場所として知られています。

    松尾芭蕉が歩いた道を辿ってみるのも面白そうです。

    櫟原(いちはら)神社|松尾芭蕉の句碑が見られる

    櫟原神社は延喜式(平安時代の法律文書)に名を連ねる由緒正しき神社です。櫟原神社の社地(神社の領有地)界隈には神明町という町が成立しました。

    櫟原神社には、なんと松尾芭蕉の「しばらくは花のうへなる月夜かな」という句碑が建てられました。

    また、常夜灯も見られるため、櫟原神社には漁師さんたちの航行の安全を祈願するために地元の人々が集まります。

    滑川市の宿場回廊 まとめ

    今回は富山県滑川市の穴場観光スポットである宿場回廊を紹介しました。

    富山県周辺で歴史的な街並みといえば、高山のさんまち通り、金沢のひがし茶屋街、高岡の金屋町などがよく取り上げられており、人気の観光スポットとして知られていますね。

    じつは滑川にも歴史を感じられる古い町が残っています。高山や金沢ほど賑わってはいませんが、逆に古き良き日本の姿を静かに見て回れるのでお勧めです。

    日本の古い町をゆっくり歩きたいと考えている方にお勧めです。ぜひ立ち寄ってみてくださいね。

    それでは、また!